カテゴリ:テクスト text( 6 )

マンホールペインティング


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「マンホールペインティング」

ある日、銅鏡について書かれている本を読みました。
おそらく宗教上に用いられたであろうその造形は、私にはマンホールにしかみえませんでした。

そして、「もしかしたら、人間はその時代に要請された意図や用途を越えて、
繰り返し似たような造形物をつくり、生活の中に取り入れるのではないか」
と想像し、
「銅鏡とマンホールは共に、都市の表と裏を繋ぐ異界の徴(しるし)」なのではないか、
と考え至るようになりました。

また、そういう視点で街にでてみると、マンホール(異界の徴)の数は思った以上に多く、
線で結べば何かの像にみえてくる、夜空に煌めく星々―星座を想起させました。

私はマンホールペインティング・シリーズという絵画作品で、
京都という古い都市の持つ独自の場所性(トポス)を感じ取り、
無尽蔵に「物語」を産み出せることができる 可能性を提示したい。

マンホールというひとつの造形物をつかって、都市あるいは人間の履歴を自由に
読み解こうという試みです。


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*自分の活動の中の位置づけ

私はこれまで約10年間、都市と人間の関係について、
もっと言えば人間のつくった環境と、それにより不自由になった肉体について考え、
表現してきました。
そういった意味では、狭義の「絵画」作品ではなく、
「建築」に近いアプローチだったのかもしれません。


大学時代に過ごした東京という比較的新しく驚くほど表層的な都市では、
表層的なコミュニケーションから逃れるような作品を多くつくっていました。

2001年 短期滞在したベルリンでは、壁のあった場所を巡り 簡易的な建築物をつくって設置し、
かつて東西どちらにも属さなかった場所にベルリンに住む人々に入ってもらう、という
作品を発表しました。

京都に住むようになった2006年からは、非常に古い歴史を持つこの都市の力、
歴史の積み重ね(履歴)に圧倒され、次第にその驚きを糧に作品をつくるようになっていきました。

マンホールペインティングは、これまでの作品を経て、
この都市―京都に住んで獲得した、ある1つの視点を初めて提示する作品になります。
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by taishi_tomi | 2010-07-10 23:08 | テクスト text

読書日記 2


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読書日記 1のつづき


 加藤周一『日本文学史序説 上・下』
スタジオジブリから出ている加藤さんの『日本その心とかたち』を読む。
ちなみに今月末からジブリの協力で加藤さんのドキュメンタリー映画が上映されるみたい。

日本の美術史を縄文時代から繙(ひもと)くのは、この時期の土器の形や文様におどろくべき独創性があったためである。(中略)注目すべきは、これらの力強くダイナミックな形象がその後の日本の造形の中に見られないばかりか、世界の他の地域の土器にもみられないという事実である。(『日本その心とかたち』P15)

海外との交流も少しはあったと思うけど、
縄文人達は ほぼ1万年にわたって外部から孤立していた。
縄文土器のその独特さは、そういった「鎖国」状態が非常にながくて、
その結果、熟成・洗練されたもの。

そして、その頃の時間感覚は、現代のように直線的なものではなく、
太陽と地球の運動に忠実に、生と死が循環して円を描くような、
そんな感覚だったんだとボクは思う。

この本で一番気になったのは、聖徳太子の仏教の道具化(instrumentalization)という指摘。

外来の、知的に洗練された「イデオロギー」体系の道具化は、おそらく聖徳太子に始まって、
日本思想史を一貫するのである。( 『日本その心とかたち』P51)


人々を治めるための「思想(死生観)」や、「文字」を自前ではつくらず、
道具として利用する。
道具は使う者に合わせて、形が変わる。つまり土着化する。
このとき聖徳太子が選択した「方法」が現在もなお生き続けている。


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 杉本博司『現(うつつ)な像』を読む。

特に菅原道真による遣唐使の廃止(寛平六年)以降は貞観彫刻と呼ばれる日本独特の仏教彫刻の名品が次々と生み出されることになる。そしてそのほとんどが初期の金銅仏ではなく木彫仏となるのは我が国の霊木信仰と深く繋がりがあることは明白である。
(『現な像-神が仏になる時-』P15)


よく指摘されるように、はじめに日本の文化が花開くのは平安時代。
これは、平安期の遣唐使の廃止とリンクしてて、
遣唐使の廃止は「鎖国」に近い状態を意味し、その結果、
渡来してきた様々なもの(道具)が日本の風土で変形し、熟成・洗練が加速された。
仏教では、自然崇拝(アニミズム)との融合(本地垂迹)が行われる。

それは、
ある1つの外からきたものが、日本の多湿な気候でどんどん苔むすイメージ。

そういったことは現在に至るまで続き、明治期に入ると
中国(スタンダード)の失墜で、よって立っていた中国文化圏から切れてしまい、
マルクス主義や、キリスト教、大雑把に言って西欧合理主義みたいなものまで
「道具」として必死に取り入れ、「本家取り」していったんじゃないか、と思う。

*「道具化」に対して抵抗はなかったのか? といえば、
仏教を取り入れるかどうかで蘇我氏と物部氏の戦いがあったらしい。
危険な「道具」とみなされ、禁教扱いされた江戸期のキリスト教の
教徒達の潜伏の歴史もある(ちなみにボクの先祖は隠れキリシタンらしい)。
マルクス主義の中野重治の転向や福本和夫の投獄なども。
でも、現代もそうやけど、多くの人達はそういう葛藤はあまりなく、
あまり考えずに、たくましく生きてきたっぽい、と思う。


ある1つのスタンダードがあり、それに苔むす、またはヤドリギのように寄生する、
具体的に言えば、「連歌」や「本家取り」のようなことを、
日本に住む人達は、1000年以上に渡りしてきたんだなー、と再確認。

読書日記 3 へつづく
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by taishi_tomi | 2010-02-09 14:05 | テクスト text

読書日記 1


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アトリエの蔵書整理のついでに 少しまとまって読書。
最近は読みたい本は絶版が多いので、図書館利用ばかり。
だから、いま手もとにあるのはほとんど大学時代に読んでいた本達。

でも、根本的な「ものを考える枠組み」はその時にほぼできあがったので、
本棚を眺めているだけで自分の頭の中が可視化されているみたいで
とても面白い。



 松岡正剛『連塾 方法日本1』 『連塾 方法日本2』を読む。
これは最近購入。
大学時代は松岡さんや内田繁さんの講義を受けに
大学の授業をよくサボッてた(笑)。

千夜千冊の試みなんてとても面白いし、
ご自身をうまく「キャラ立ち」させているスタンスや、
多くの肯定的な発言も、フットワーク軽くて心地良い。勇気づけられる。
ボクはリアルタイムじゃないけど、雑誌『遊』の試みなんて今からみても面白いし、
こんな手間をかけた雑誌は他に見当たらない。

正剛さんの本はイイ意味で横滑りしていく。
「本」という存在が、混沌とした世界 という「海」に対しての
言葉や図によるマッピング=「錨」だとすると、
その錨から錨へとどんどん移行していく、ネットサーフィンする、
脳細胞の網を紡ぎだし創りつつ、その網を遊泳する「目」みたい。
またはその目の遊泳「方法」を毎回提示されている気がする。

この本は、日本の文化のコアは一体何なのか?
ということを論じている本なんやけど、
ボクが1番気になったのは、「言語翻訳コスト」について。

どの言語が覇権を握るかによって、そうではない国や民族がかける翻訳コストというのが
ものすごくバカにならない(『連塾 方法日本2』P99)


通貨や製品と同じように言語も常に戦争している、という指摘。
ex.アイルランド語は英語に殺された・・
現代はアメリカの言語=英語が覇権を握ってるけれど
英語は、少数の者が使っている英語ではない他の言語をどんどん駆逐していく。
そして風習が消え、思考(嗜好)が変わり、リズムがなくなっていく・・。
(英語の覇権は近代以降の本当にごく最近の現象)


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 柄谷行人『近代日本の批評1〜3』を読み返す。懐かしい。

中国が宗主国であったという意識はなかったけれども、中国文化圏というか、
そういうユニヴァースに自分たちがいるという意識は、漱石にしてもあるんですね。
日清戦争でそれが消える。
(中略)しかし、漱石や天心にとっては、それはユニヴァーサリティの崩壊を意味した。
漱石が西洋文学の普遍性を疑ったとき、持ち出してくるのは、日本文学ではなくて
漢文学です。むろん、漱石はどちらが普遍的だとは考えない。そこで「科学」に行く、
あるいは「理論」に行く。(『近代日本の批評3』P108)


言語の覇権といえば
アヘン戦争-日清戦争前後までは、日本は中国文化圏という意識が強かった。
そもそも日本の文字はすべて漢字から派生したものだし、切り離せないもの
つまり(特に聖徳太子の時代から)ずっと、日本では中国語が覇権を握っていた。
けれども中国の失墜で、植民地になる危機から、中国文化ではなく西欧の文化を
吸収・消化せざるをえなかった。
このとき、よって立っていたスタンダード(=中国)がなくなってしまった。
切り離してしまった

福沢が『脱亜論』を書いたのは、朝鮮に対する絶望みたいなものですね。
つまり、福沢も、朝鮮や中国にがんばってほしかったのです。
(『近代日本の批評3』P109)


江戸時代までは中国文化があり、それに対しての日本文化というものがあった。
スタンダード(=中国)がなくなる危機感をひしひしと感じていた
夏目漱石は「理論」へ。
正岡子規は「写生」へ。
必死に追究していく。

よって立つものから切れてしまって、
じゃあ今は、英語(アメリカ)がスタンダードか? といえば
どうなんやろうか? 個人の実感としてはまったく違う気がするけど
ひとまず留保。

読書日記 2 へつづく
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by taishi_tomi | 2010-02-08 15:34 | テクスト text

HYSTERIC JAPANESE " FUCK ME or KILL YOU " (2002)


まるで 8ミリかなんかのフィルム が遠心力の惰性で流れている

かのように錯覚してしまう山の手線 新宿駅での 内回り外回り

すれ違い、寿司詰めにされ倒錯的な快楽にふけり、あるいはどっかの

形而上磁場 -「ああ、頭の中では爆音でブラックが流れている・・・」-

と繋がったりとかしている人々、人々はその1輛の露光されたフィルムに

焼き付けられながらまたそれをそういうものだというふうに何ごとも

ないかのように知覚もしないでしらんまにその対象である自分自身をも 

消費し犯してしまう。そして「ああ、気持ち良い・・」ということは、

実はこんな言葉で表わすなんてかったるいことは抜きにして詰まる

ところ向こうの乗降口で爆音を聴いているメス豚のおっぱいと

その下品なケツとアミタイツに覆われたパツンパツンの脚、そんな体を

強調している歪んだグロテスクな優越感も、どうぞ、歓迎いたします、

そして今すぐハメましょうなどと考えている小学3年生もこの中には

確実にいるわけだが、やめなさい、そんな無意味な言葉を垂れ流さないで

くださいお願いしますと懇願いたすしゃらくさい下僕も中にはいたりして。

そして目で愛でる、そのフィクションを。他の受容体は邪魔なので捨てて

ペニスとクリトリスとアナルを発達させればこっちのものさ、つまりは

精液と愛液と糞としょん便と汗と排卵とか月経の血のオブセッション、

その匂いに耐えられないようなお鼻は潰しましょう。すべての音を

聴いたら耳は潰せ、気持ちの良い音が3日も見つからなかったらその時も潰せ。

色覚なんて2色の違いがわかれば上等、快楽を得たいのであればすべての

感覚を放棄しろ。ドラッグなんてやめなさい安易すぎます、君は今すぐ

青空をみろそしてそれがどのようにして網膜が反応してるのかをイメージ

したまえ。


「でも人肌が恋しいです!」しゃべるな笑え意味は求めるな。

「恋しいです!」それができないなら車輌からとっととでてけ。

次の駅までなんて待つな今すぐ降りて。そんなお前は地面に叩きつけられ

この退屈なすべてから解放されるのだから望むところだろ。だろ。だろ。

本当はそんなことで解放なんてされない、ただナルシシズムが満足する程度・・。

革命なんて考えるな。「オウム」か「三島」のようになるのが関の山だ。

あんな退屈な・・言葉にするのも退屈だ。しかしこんなアイテム達はやはり

つまらない、みんなわからないのか?と問うマザコンの巨乳好き

プライドの高い、いつも戯言をいっているウィトゲンシュタイン達

気が狂いながらもこの史上最大で抱腹絶倒、つまらないゲームを続ける

ほかない。いわく、「こんな閉塞感いやだいやだ」。そんなこと

お前がアホ扱いしているJポップ-ああ、愚劣で耳障りなシュプレヒ

コール・・-好きの仔猫ちゃん達さえ、むしろ奴らが身をもって感じて

いる、ごちゃごちゃがなりたてるなうるさいもういい黙れすっこんでろ。



TEXT 『Fuck Me or Kill You』 2002 (1996-2002) より



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“ Melancholic Saturnian ” 256 x 304 (cm) Oil on panel 2005
@ caso osaka

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by taishi_tomi | 2009-01-12 00:00 | テクスト text

MEMO

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厳密な「言葉」を獲得すること

「生活」=まだ「芸術」ではないけれど
まずは生活の言葉を獲得すること

精神に限度はない

「才能」とかではなく「人格」=代用できないもの
非常に個人的なものであるけれども
私的なものではない、共有できる「何か」

新しくはないかもしれないが
(既知の中にある)未知のものを一緒に探す(共有する)
参考になるのは自分の体験のみ

新作ごとに0からはじめる
当然これまでの実績は一切関係ない

共有する前に、たった独りで模索すること=忍耐が必要

私達の不自由(困難)ー自由をどのようにあらわすのか?
曖昧なものではなく、しっかりしたフォルム(身振り、ストローク、マチエール、飛沫…)
を与えることが必要

一方、形(言葉やフォルム)にするには繊細・曖昧なもの→言葉にしない
「そのまま」留める努力をする
そのうち、「そのまま」が育ってきて、何らかの形を獲得してゆく

「わかる」

考えるようにしない
感じるようにする
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by taishi_tomi | 2008-09-11 12:19 | テクスト text

作品について 4つの断片

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           “ Realta ” 146×140cm  oil on canvas / sep 2007


 1.

幼い頃の、家にあった絨毯の模様、台所に敷かれたタイル模様のマット、
チェックのカーテン越しの甘い陽射し。街中に敷き詰められたブロックのパターン。
部屋の壁紙に目を凝らしては、小さな凹凸が無数にあり、自分がいるのはこの凸の
1つで、まわりに茫漠と広がる得体の知れない「世界」が確かにある と小さな胸を
ときめかしていました。

 今でも規則的なパターンに目がいきます。
「自然」から切り離され、自分達でしつらえたパターンに囲まれて 4畳半的植木鉢に
栽培されている私達の身体。
 心の綻びは見せまいとその規則性に自分を埋没させる事。
そうやって多くの人達は日々をやり過ごしているように私にはみえます。
それは裏を返せば、パターンのすぐ側で爆発してしまいかねないものが蠢いている、
という事です。
 そういった身体の陥穽に目を逸らさず捉え、紙やカンヴァスに定着させ、
私がみている世界観(ヴィジョン)を再構築して絵を制作しています。 

16:40-19:50 9.nov 2007


2.

日々、代謝し変化してゆく肉体。
石や鉄、骨や放射線量も、刻々と変化してゆき、
永いスパンでみれば、いま表に顕われている“現実”とは、
すべて仮構のものでしかありません。

感覚的に得た色・形・ストローク、思考の切れ端、気分、
カンヴァス内での暗中模索の中、偶然垣間みれた未知の世界観・・。
様々なものの痕跡=仮構を 一時的に残せる絵画というメディアに
常に驚嘆しながら、制作しています。
(むこう10年 制作などせずにただ驚き続けるだけでもいいんじゃないかと思う程です。)

鑑賞という事態も、制作時のスタジオの作者から離れて、
アカの他人が全く違う時空で感覚や思考を受け取る事ができたり、
距離をとって分析する事のできる、驚嘆すべき所業の1つです。

私にとって制作とは、
時空を超えて未来永劫 パフォーマンスし続ける
私の、そして私ではない分身を、半ば無責任に産み出す
営為にほかなりません。

2007 12/8 15:35-15:48



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3.

藤子不二雄の短編『カンビュセスの籤』、『ヒョンヒョロ』のラスト、
手塚治虫『火の鳥ー未来編』の敵役ロックが爆心地で佇むシーン・・。
今までの登場人物の身体の動きやストーリーの流れが、
全てこのコマの為にあったのか、と思えるシーンに、
身体が凍り付くほど感動します。

ボクにとって制作とは、そのまま時間が凍り付いて、
未来永劫ずっと行為をし続けるようなシーンを
原爆の影のようにカンヴァスに強烈に焼き付ける行為のことです。

そのようにして、物質的現実とは違う、
もう1つの世界を産み出そうとしているのです。

2007 12/8 15:52-16:07


4.

限定されたカンヴァスに「自由に」描こうとすることは、
私にとって不快で矛盾をはらんだ行為です。
常にその外に出たい、カンヴァスを粉々に破壊してやりたい
という欲求が常につきまといます。

その思いは、
限定された自分の肉体や社会のルール、あらゆる制約を超えたい、
自由になりたい、という日常での私自身の強烈な欲求と重なります。

私にとって作品=カンヴァスとは、
私達が普段 知覚することができない“閾(いき)”に剥き出しになった、
自由を求める肉体であり、皮膚であり、思考の軌跡・痕跡なのです。

2007 12/8 16:09-16:22
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by taishi_tomi | 2007-12-12 13:49 | テクスト text